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ケント・ギルバート:外国人だから言える日本のスゴさ Vol.2

2016.8.30 | 
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外国人だから言える日本のスゴさ Vol.2 ロイスがケント・ギルバートにインタビュー

ロイス:
ケントさんご自身はどうでしたか?
どのように変わりましたか?

ケント:
みんなおかしくなったって言ってましたね(笑)。
私は6人兄弟の一番上で、騒いでいたら「うるさい!」と注意するようになりました。
当たり前じゃないですか。日本は比較的静かな国ですから。
私はむしろ日本的になり過ぎてしまった。
リバースカルチャーショックっていうんでしょうね。

最初の1~2カ月はこの子はどうなったのかと
家族が思っていたようですが、その内正常に戻りました。

ロイス:
私の兄弟がドイツから戻ってきた時も、英語を一時的に話せなくなったんですよ。
ケントさんが当時日本にいた時「また日本に戻ってきたい」と思っていたんですか?

ケント:
伝道中、日本に戻りたいと思ったことはありませんでした。
2年間やった後は、大学に行こうと思ったのです。
以前、私は将来のことをあんまり真面目に考えたことはありませんでした。

大学4年生になった時に、とても尊敬してる先生から
「お前卒業してからどうすんの」と聞かれたわけです。
私は法学部か法科大学院にでも行こうかなと思ってると答えました。
すると「おまえ、受験受けたか」と言われました。
試験があるのを知らなかったのです。
「残り2週間だよ、どうすんの」と言われて。
どのように準備したら良いか尋ねたのです。
彼は「ニューヨーク・タイムズを2週間の間に隅から隅まで全部読んでしまいなさい。
ヨーロッパの古典美術に関する本を1冊ちゃんと読みなさい」と言いました。
私はそのようにしたのです。

2週間後の試験では古典美術の問題がでました。
的確な素晴らしいアドバイスでしたね。
それも霊感だったかな。よく分かりませんが。
私は成績優秀ということで、法科大学院では全ての教育費を大学が持ってくれました。
だから多少は頭良かったかな(笑)。

大学生時代に日本で伝道したことによって日本語をある程度は覚えました。
だからその単位がもらえたのです。16単位だから半年分です。
簡単な試験を受けて、単位を取りました。
あとは日本語を専攻にしてしまえば、あと半年でできてしまう。
簡単に法科大学院に行くためには、大学の専攻は何でも良かったので
日本語にしてしまいました。

ある日『U.S. Information Agency』という情報局が面接に来たのです。
大学の就職センターから日本語学科に連絡があり
面接をやっているから、受けたい人はどうぞいらっしゃいと。
だから私はそこに向かいました。

面接の内容は、1975年に日本で行われる沖縄海洋博という博覧会で
アメリカ館で働く人を募集していたわけです。
私の大学からは、私と友だちの3人。
全米でも10人しか採っていないのに、うちの大学から3人が採用されました。

私は大学院を1年遅らせて、沖縄で7カ月間働きました。
これもまた大きな発見でした。
沖縄は返還されたばっかりだったのでまだ未開発でした。
当時、基地の中と外の宿舎がありました。
だから私たちは両方の沖縄の文化を体験することができました。
また、多くのハーフの子がそこで働いていたので
両方の文化をよく知るその子たちと付き合うことができました。
今度はテレビを見ても良かったので、毎日1時間ぐらいテレビを見て
日本語が自然になっていきました。

卒業後、日本語学科の先生が不足していたので私もクラスを教えたのです。
「教師」というタイトルになりますね。
自分のクラスを持って自分が教えました。

それを4年生の時と、大学院4年間、合計5年間日本語を教えたのです。
法科大学院に行ってる間にビジネスもやりたいなと思いました。
経営学修士号・MBAも同時にやりましょうと。
そうすると大学院が3年から4年に延びるのですけどやりました。

途中で東京の最大手の渉外法律事務所で研修を3カ月やりました。
ここまでで計3回日本に来てるのです。
計画したわけではありませんが、チャンスを掴んだわけです。

就職活動を始めた時、私は大手渉外法律事務所に就職して
日本からアメリカに進出しようとする日本企業の相談に乗りたいと思ったのです。
そういう仕事をしたかったのです。
西海岸には大手の良い事務所が多いわけではありませんが
それぞれに履歴書を送って、面接を受けたのです。

面接を受ける時に言われるのです。
「あなたは日本に戻りたいんじゃないの。いずれ日本に行きたいでしょ」と。
私はそれを否定し、あくまでそれは経験の1つであり
それをアメリカで活かしたいと伝えます。
すると私のことを嘘つきを見るような目で見るのですね。
結局どこも私を採用してはくれませんでした。
私はサンフランシスコの電話ボックスで涙を流した記憶があります。
「この先どうなるのだろう」と。

その時私はすでに27歳でした。
2回休学してるわけだし、大学院も4年やっている。
しかも結婚して子供が2人いたのです。
だからどうしようかなと思って。
いちかばちか東京の研修の時のボスに電話したのです。
すると「お前どこで働いてんの」と。

「実は今年卒業する予定です」

「え? あ、そうかお前MBAもやるんだ。どこに就職するの」

「いや、どこも採ってくれなくて」

「3月だろうが。まだ決まってないの?よし、じゃあこっち来いよ」

「いや、ちょっと待ってください」

「良いんだ。人手不足だからちょうど良い。じゃあいつ来れる?」

「いやいや、ちょっと待ってください。司法試験が7月にあるので」

「よしじゃあ8月1日に来い」

「いやいや、ちょっと待って。その後倫理の試験があるのです」

「それいつなの」

「8月14日」

「じゃあ翌日から来い」

それでもう決まってしまいましたね。

「ちなみにおまえいくらいるの、給料は」

「なぜ私が決めるのですか」

「あんまり安いこと言うと後で後悔するよ」

実際来てみたら、思い切って言った金額より200万程足りなかったですけどね(笑)。

1980年8月17日に再び来日しました。
妻、生後5カ月、2歳と1カ月の息子2人と一緒に。
杉並区の善福寺の平屋の一軒家に住むようになりました。
仕事場が青山で、丸ノ内線で通っていました。
それがとても楽しかったです。すごいアドベンチャーで。

実は妻には3年で戻ると言ったのです。
でも事務所には4年と言っていました。
本当は自分の心の中では5年だと考えていました。

当時、日本で法律業務を実際に行ったことがある白人のアメリカ人で
日本語ができる人は多分全米でも5人いるかいないかだったのです。
だからニッチにはなるのですけれども、良い所に目をつけていました。
だから5年で戻ってしまえば、
おそらく日本からの対米法律業務を独り占めできたと思う。
しかし途中で、テレビに出演するようになりその計画はなくなりました。

自分からテレビに出演しようとは思っていなかった。
誰だって、1度くらいはテレビ出たいですよね。
「出ない?」と言われてたら出るでしょ、1回は。
実は東京に外国人で構成されてる劇団があるのです。
ある時芝居の代役で出てくれと友達に言われて、仕方なく出たのです。
それをあるテレビのプロデューサーが見て
こいつは使えるんじゃないかなと思ったみたいですね。

その後はNECの輸出用のコンピューターを操作する方法を教えるビデオに出演。
説明ビデオに出演しないかって言われて金額を聞いたら結構良い金額だったので。
うちは財政的に破綻する寸前で、神様からの恵みだと思ってやったのです。
丁度連休で仕事に支障もない。
だからお金を頂いて、破産しないで済んだのです。

面白かったのは、現場ではまずはマニキュアをし始めるのですよね。
普通、顔のメイクをしますよね。
そうではなく、この指の手入れをしてくれてるのです。
要はタイプしているところを撮影するわけですから。
だから顔はどうでも良いのですよ、本当に(笑)。
その時に共演した女性がすでにその事務所に所属していて
以前から私に目を付けていたみたいなのです。
その女性が舞台でも共演だったわけですから。
そこでビデオに彼が良いんではないかということで、私を使ってくれたのです。

その後1カ月ぐらいしてテレビドラマの出演依頼がありました。
相手は竹下景子さん。
当時結婚したい女、第1位だったのですね。
これは断るわけにはいかない。
それが土曜日の撮影で、仕事に支障がありませんでした。
金沢でロケ。
でも行って1分で終了。
実際放送を見てみると、映っているのはここからここまで。
顔がブラウン管の上からはみ出ていました。
「あーあ、こういう運命か」と思いました。
でも1回は出たから良いと思いました。

その後1ヶ月ぐらいして、今度はクイズ番組に出ないかと言われました。
「ちょっと待って、みんなの前でバカになりたくないんだよ」と伝えました。
すると「そうじゃなくてお前だからできると思うんだ。
外人記者クラブに来てくれよ。見せるからさ」
行って見せてもらったら、『世界まるごとHOWマッチ』だった。
割合簡単な値段を当てる番組だったので、これは良いかもしれないと思った。
値段をぴったり当てると世界一周旅行がもらえたのです。
だから1回ぐらいは出てみようかなって。

出演してみたら、ぴったりではないけれど、極めて近い値段を出したのです。
ニアピン賞ですね。
プロデューサーたちがびっくりしてしまってね。
じゃあ来週も来てくださいと言われました。
これも撮影が土曜日だったのです。
だから仕事には支障がありませんでした。

次の週行ったら、またニアピン賞を取ってしまって翌週も出演することに。
出演3回目でぴったり当ててしまいました。
それでレギュラーになり、8年間やりました。

その番組は当時、夜11時の時間帯で視聴率5%。
これが次第に上がって、最高で30%になりましたよ。
30%って夜11時の時間帯ではあり得ない話。
ですからあっと言う間に有名になってしまって。
それまで外国人がまともに日本のテレビに出演したことはありませんでした。
少しだけ出て、片言の間違った日本語を言って笑われて消える。
そのような扱いが多かったのです。
例えるなら、塩こしょうでしょうか。
主食ではないのです。

そういう扱いでしたが、私の場合は5人の回答者の1人です。
だからディレクターに言われました。
「お前たちは5人しかいないんだぞ。
だからお前1人がこの番組の20%を持たないと駄目だぞ」と。
私の力を信じてくれてるんだなと思って頑張りました。

それがきっかけで、コマーシャルや映画にも出演しました。
誰も覚えていませんが、レコードも1枚出しました。
でも日本の保育園ではみんなに歌われていますよ。
また、本も何冊か出しました。
一発目の本が10万部売れましたね。
やらなかったのはポルノぐらいかな(笑)。
それと映画評論家をやらないかって言われたのですが
「それはちょっと」と思ってね。

>ロイス・クルーガー
ロイス・クルーガー

故・スティーブン・コヴィー博士と共に、世界最大級の企業研修及びコンサルティング会社であるフランクリン・コヴィー社の共同創設者。

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